わたしのなかの和菓子

 
いまは関東の、神奈川に住んでおります。
 
生まれは、奈良です。
親戚は、京都、大阪、奈良に点在。
 
わたしのなかの和菓子は、「上生菓子」だったんだなあと、最近、なんだか改めて自覚しました。
 
関東に住んでもう20年以上たちます。
関西に住んでいた時間よりも、長くなります。
なので、日ごろは奈良や京都のことはすっかり、わすれています。
 
でも、関東に来てから知り合った仲間たちとazuki magazineを立ち上げ、和菓子のことを話したりしていると、ふと、ああ、自分は、出身は奈良なんだ、京都にも親戚がいていたんだ、ってことをすごく思い起こさせられます。
 
たとえば、こんなとき。
 
わたしのなかで、和菓子は、「上等な頂きものを、1個だけ、大事にいただくもの」という感覚がすごく大きいです。
 
なので、1回にバクバク複数個食べるものではないという感覚がどうしても抜けません。
 
パリの和菓子屋さん「tomo」にはいったとき、お皿の上に、和菓子が落ちそうなぐらい載せて食べておられる風景をみて、「ああ、こうやって、日本人も、和菓子を食べるひとが1個ではなく、3個も4個も、たくさん食べてくれたら消費が増えるのでは」なんて考えが浮かぶぐらいです。
 
でも、そんなところで、複数個の和菓子を一人が食べる姿をみて感動するほうが、おかしいですよね。
 
だって、団子や、大福、どら焼き、柏餅、桜餅を、カジュアルにわたしだって2個、3個食べるからです。
 
なんで、かなあとおもっていました。
 
で、わかったのは、わたしのなかでは、お茶席の上生菓子を、大事に、そっと、1個だけ、いただく経験がおおきかったからです。
 
京都の親戚からいただいた、箱にはいった上等な和菓子を、いつも、母が大事そうに一人分、一切れを、切り分けて、お皿にのせてくれるのは、まるで儀式だったからです。
母は、家で、お茶席風に、わたしたち子供に菓子を呈してくれていたのですね。
 
そうだ、あのころ、わたしは、おすまししした茶席でいただく菓子がたった1個であるので、「ああもっとたくさん、甘い菓子を食べたい」と熱烈におもっていました。
 
でも、大人に混じって、大人がたべる上等な菓子を、子供もいただけることの雰囲気にまじらせてもらっていることも、わたしには誇らしかった。
 
だから、「ああ、もっとたくさん和菓子食べたいなあ」とおもっていたのは、いまからおもえば上生菓子なんです。
 
柏餅や桜餅など、近所のお饅頭屋さんで、10個20個と買ってもらっていたのが、わたしのなかで和菓子にカウントされてなかったのは何故なんでしょうねー。
 
先日、和菓子メディアを運営されている、和菓子ライターのせせなおこさんにお目にかかっておはなししていたとき、和菓子を4つも一度にお皿に載せていただいたものをいただきました。

せせ日和 | 和菓子が食べたくなるメディア!

せせさんに、「こんなにたくさん一度に食べられるなんて贅沢なチャンスです」
とお話ししたら、
「そうですか、わたしは日常です」とおっしゃっていました。
 
うん、わたしも、日常生活のなかで、複数個の和菓子を一度に食べる機会はなくはない。
でも、なぜ、「たくさん食べたら贅沢な気分になるのか」。
なぜなぜ。
 
そんなことをツラツラ考えていたらいたら、「上生菓子」がわたしのなかで、和菓子だったのだあと、いまごろ気づきました。
 
いろんな餡菓子が出ていて、食べても食べても、珍しい菓子、美味しい菓子は、次々に出会います。
それぐらい、餡の和菓子の世界は広いです。
 
でも、自分の原点は「上生菓子」だったんだあとおもったら、その広い餡菓子の世界も、軸ができ、いまより泳ぎやすくなる気がなんだかしました。
 
贈ってもった和菓子をいただくのが、好きなようです。
贈り、贈られる、気持ちや笑顔を贈るアイテムとしての和菓子というわたしのなかのイメージは、こんなところからきていました。
 
小豆をまんなかに世界のひとの笑顔をひろげたい、そんなわたしたちの活動の原点、わたしのなかの「大事な贈り物をいただく」という体験から生まれてたんですね。
 
今日は、土用です。
うなぎより、土用のあんこですね!